あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネの福音書15章7節)

1.詩篇37篇3節ー4節
2.マタイの福音書5章38節ー48節
3.ヤコブの手紙4章1節ー10節
4.ヨハネの手紙第一5章14節ー17節

イエス様は「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と約束されましたが、そこには、「あなたがたがわたしにとどまり」「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と、二つの留意すべき点を語られました。ヨハネは「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。(ヨハネの手紙第一2章6節)」と語っています。パウロは「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった』と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙15章1節ー3節)」とキリストがどのように歩まれたかを語る一方で「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ人への手紙8章6節ー7節)」と、みことばに生きることができない原因を語っています。主から「あなたに何を与えようか。」と問われたソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と申し上げると、その願いは神のみこころにかなったので知恵の心と判断する心が与えられただけでなく、主が彼が願わなかった富や誉れを与える、と約束されたのでした。彼がみこころにかなった願いを申し上げることができたのは主を愛していたからではないでしょうか(列王記第一3章3節ー13節)。心と思いが守られるように感謝をもって祈りと願いをささげようではありませんか。(ピリピ人への手紙4章6節ー7節)