私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることができない。人が労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。(伝道者の書8章16節ー17節)
1.箴言3章1節ー7節
2.伝道者の書3章1節ー11節
3.イザヤ書55章6節ー13節
4.ローマ人への手紙11章25節ー36節
主から知恵の心と判断する心を与えられたソロモンは(列王記第一3章3節ー12節)「私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、すべては神のみわざであることがわかった。」と語ってから「人は日の下で行われるみわざを見極めることができない。人が労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。」と人の知恵の限界を語りました。主は「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」と言われて近道であるペリシテ人の道に導かれずにモーセに引き返すように仰られただけでなく、パロの心をかたくなにされたので、パロ自ら軍隊を率いてイスラエルの民に追いつくようなことになったために、前方には紅海、後方からはエジプト軍と四面楚歌のような状態下に置かれた民は非常に恐れて主に向かって叫んだのですが、モーセを非難するようなことをしたのですが、主は紅海の海水を二つに分けられ、民が無事に対岸に渡り終えると、海水を元に戻して彼らが恐れたエジプト軍をひとり残らず溺死させられ(出エジプト記13章17節及び14章1節ー31節)、神の力と民に対する守りを現わされ、荒野を旅するために必要な準備をされたのではないでしょうか。イエス様はラザロが病気になったのを聞いても行かずにラザロが墓に葬られてからマルタとマリアを訪ねたのは、癒すためではなく、死人をよみがえらせる力があることを示されるためであったのでした(ヨハネの福音書11章1節ー45節)。箴言3章5節ー6節「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」を、しっかり握り、主が主権者であることを、すべてのことを働かせて益としてくださることを感謝しようではありませんか。