エッサイの根から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ書11章1節ー2節)

1.マタイの福音書3章13節ー17節
2.ルカの福音書4章14節ー22節
3.コリント人への手紙第一1章18節ー25節
4.エペソ人への手紙1章 3節ー19節

主はダビデに「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座を堅く立てる。・・・あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王国はとこしえまでも堅く立つ。」と約束されましたが、今日の聖句は「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」と、ダビデの父の名前とともに、根株しか残らない状態、すなわち、目に見えるダビデの王国は全く滅ぼされることはなくても隆盛を失ってしまうことが語られていますが、「その根から若枝が出て実を結ぶ。」と、イザヤは主がダビデに約束されたように、イスラエルは再興されるという希望を語るとともに、主の霊、すなわち御霊の特質をも語っています。ダビデに与えられた主の約束は「ダビデの子」と言われるイエス様によって成就されたのでした。洗礼を受けられ水から上がられたイエス様は聖霊に満たされたのでした。ところで、キリスト者には主に注がれたのと同じ御霊が与えられていますが、自分の考えや感情に固執してしまうと、せっかく与えらているにも関わらず、御霊の働きを妨げてしまうようなことがあるのではないでしょうか。神のみこころを教えてくださる(啓示を与えてくださる)御霊を消したり、御霊を悲しませるような肉の思いや欲に支配されないように、パウロの「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」という祈りに心を合わせ、御霊によって歩むことができるように(ガラテヤ人への手紙5章16節)、お互いのために祈ろうではありませんか。