その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネの福音書1章29節)
1.ローマ人への手紙7章18節ー8章3節
2.コロサイ人への手紙1章13節ー22節
3.ヘブル人への手紙10章14節ー18節
4.ヨハネの手紙第一3章1節ー5節
パウロは神に対して熱心でしたが、自分の義に生き、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知らずにキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者となった彼は「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが、この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と悩みましたが、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と答えをキリスト・イエスに見出したのでした。なぜなら、ヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」とイエス様について語られたように、イエス様は十字架で罪の罰を一心に受けてくださったので、イエス様を信じたキリスト者の全生涯の罪は赦されているだけでなく取り除かれているがゆえに、罪のためのささげ物はもはや無用であることをヘブル人への手紙10章18節は語っています。人には記憶力があるので、神の前にはすでに取り除かれているのにも関わらず、過去の罪や失敗が繰り返し思い起こされるようなことがありますが、過去に縛られないように、イエス様が罪に定められないようにとりなして祈っていてくださること、罪は取り除かれていることを認め、国籍が天にあることを忘れず、主にお会いできる将来に向かって生きようではありませんか。