律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ人への手紙5章20節ー21節)
1.マタイの福音書5章17節ー20節
2.ヨハネの福音書1章14節ー18節
3. ローマ人への手紙3章19節ー28節
4.エペソ人への手紙2章1節ー9節
パウロは「ー律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ー(ローマ人への手紙2章14節ー15節)」と、律法を持っているユダヤ人だけでなく、すべての人には良心が与えられているために、良心の咎めを受ける者であることを、そして「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。(ローマ人への手紙2章16節)」と、すべての人に罪や咎が裁かれる時があることをも語りました。物心がつく頃からこの世を去るまで罪や咎を積み上げながら生きている人類を救うために神は御子を人としてお遣わしになられ、十字架の死をもって神の義をお示しになるとともに恵みを実現してくださったのでした。ですから、イエス様を信じる者は裁かれることなく死からいのちに移されているのです(ヨハネの福音書5章24節)。ですから今日の聖句を心に据えて、ヘブル人への手紙4章16節が「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように、自分の心が責めても、恵みによって救われ永遠のいのちが与えられていることを、主がとりなしていてくださることを思い起こし、恵みの中に生き続けようではありませんか。