一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしていないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人一人は互いに器官なのです。(ローマ人への手紙12章4節ー5節)
1.コリント人への手紙第一12章12節~27節
2.エペソ人への手紙1章17節ー23節
3.エペソ人への手紙4章13節ー25節
4.ペテロの手紙第一4章7節ー11節
イエス様を信じたことによってキリスト者は神の子、神の家族とされていますが、親子関係を確立するのは血ですから、十字架の血によりそれが可能となり、夫婦関係は血のつながりはありませんが、契約関係によるものであり、十字架で流された契約の血によって、キリスト者も教会もキリストの花嫁とされているのではないでしょうか。家族とは友人関係とは異なった特別な関係があります。十字架にかけられる前、食事をしているときイエス様はパンを取り、神をほめたたえてパンを裂いてから弟子たちに「とって食べなさい。これはわたしのからだです。」と仰せられてから、杯を取り、感謝の祈りをささげた後「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流されるわたしの契約の血です。」と仰られて弟子たちに渡されただけでなく(マタイの福音書26章26節ー28節)、「聖なる父よ。、私に下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。私たちと同じように、彼らが一つになるためです。(ヨハネの福音書17章11節)」と父なる神に申し上げたのでした。今日の聖句は「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしていないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人一人は互いに器官なのです。」と、キリスト者ひとり、ひとりはキリストにあってひとつのからだを構成する者であることを語っています。ホーリネス兄弟の亀有キリスト福音教会を建てられた高木輝夫先生のメッセージを思い起こします。先生は手を見せて「皆さん手の5本の指は太さも長さも違うでしょう。でもクックク、と指を曲げると物を掴むことができますよね。違うから物をつかもうと指を曲げるとつかむことができるのですよ。」と話されたことを思い起こしました。他者と自分を比較するような生き方をするのではなく、互いに違いがあることを喜ぶとともに聖餐式の時に、弟子たちに渡されたパンはひとつであったことをも思い起こそうではありませんか。