わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43章25節)

1.ミカ書7章18節ー20節
2.ローマ人への手紙3章19節ー30節
3.エペソ人への手紙2章1節ー10節
4.ヘブル人への手紙10章12節ー18節

箴言20章8節ー9節は「裁きの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。」と語っているように、パウロはキリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知らずにパリサイ人として生きていた時には自分の義に生きキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者となった彼はいつも善を行いたいと思っても、かえって悪を行なってしまう自分の中に罪があることに気づかされ、悩みましたが(ローマ人への手紙7章18節ー19節)、「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。わたしをさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4章4節ー5節)」と、不利に陥れるような証書や全生涯の罪は十字架において処理されている恵みに生きたのでした。私たちには記憶力があるので、後悔するようなことを思い出して、苦悩し、落ち込むような時、十字架の死がむなしくならないように、私たちの罪を思い出さないと、宣言された今日の聖句「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とを思い起こし、パウロのように十字架の恵みを忘れないで生きようではありませんか。