わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103篇2節)
1.申命記1章19節ー40節
2.詩篇107篇1節ー9節
3.イザヤ書43章1節ー4節
4.哀歌3章22節ー26節
詩篇106篇1節は「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と、主を誉めたたえていますが、その後の6節ー43節において、イスラエルの民は何度も奇蹟を体験しながらも、奇蹟体験した時には主を誉めたたえますが、欲望にかられたり、人を恐れたりすると、すぐに主がどのような方かを、主の大いなるみわざを忘れ主の約束を、みことばを信じないで、エジプトで苦しんでいたことや主がエジプトで大いなることをされたことを忘れ、何度もエジプトをなつかしんで不平不満をもらしたり、偶像崇拝をしたり、自分たちの考えで事を決めるようなことをしたのでした。モーセさえも、民が激しい欲望に駆られたイスラエルの民に混じってきた者たちと一緒になって大声で泣いて「肉が食べたい。」と言い、エジプトでの食生活を懐かしんでいるのをお聞きになった主が一ヶ月も肉を与えることを告げると、モーセは「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。」と、それは不可能でしょうと言わんばかりのことを申し上げたのでした(民数記11章4節ー22節)。主がどのような方であるかを忘れると、主と主のことばを信じないで不信仰に陥ってしまうのではないでしょうか。パウロはいつも十字架にかけられたイエス様を思うと共に死からよみがえらたイエス様をいつも思って信仰生活を全うされたのでした。ダビデが「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と勧めているように、弱さや恐れに襲われた時、主がどのような方であるかを思い起こして主を誉めたたえ、主からの励ましと力をいただこうではありませんか。