善を行うことに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6章9節―10節)

1.伝道者の書11章1節―2節
2.マタイの福音書25章31節―45節
3.ローマ人への手紙12章3節―21節
4.エペソ人への手紙6章5節―9節

パウロは善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができない自分に悩みましたが(ローマ人への手紙718節)、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。(ピリピ人への手紙413節)」と、できない自分に生きるのではなく、私を強くしてくださる方、すなわちキリストに生きる時、どんなこともできようになることを語っています。なぜなら、ユダヤ人であってもギリシャ人、すなわち異邦人であっても召された者にとってキリストは神の力、神の知恵だからではないでしょうか(コリント人への手紙第一124節)。ですから、彼はテモテに「私の福音の言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを思っていなさい。(テモテへの手紙第二27節―8節)」と勧めているのではないでしょうか。イエス様は十字架にかけられながらも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書2334節)」と、とりなして祈られ、悪に対して善で対処したのでした。ステパノも、彼に石を投げている人々のために「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。(使徒の働き760節)」ととりなして祈られたのでした。ヘブル人への手紙610節は「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示した愛をお忘れにならないのです。」と語っています。迫害される身となったパウロが「悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ人への手紙1221節)」と、「善を行うことに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」と勧めているように生きるためにいつもキリストのことを思って生きようではありませんか。