主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。(詩篇112篇4節)
1.イザヤ書8章19節―9章7節
2.ヨハネの福音書1章1節―17節
3.エペソ人への手紙5章8節―17節
4.ヨハネの手紙第一1章5節―2章2節
パウロが主から与えられた使命について「わたしは、この民と異邦人の中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせるためである。」と証ししているように、神はサタンの支配から救い出し、やみから光に導くために御子イエス様を世にお遣わしくださったのにもかかわらず、イエス様を信じない人々がおられる理由としてヨハネの福音書3章19節―20節は「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ない。」と語っています。律法学者やパリサイ人は姦淫の女性に対して「モーセの律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と尋ねられたイエス様が「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と答えられると、年長者から始めてひとりひとり出て行ったのですが、それは、彼らの心に光が差し、自分にも罪があることを悟ったからではないでしょうか。そこに残っていた自分を義人と自任しているようなパリサイ人や律法学者に対して「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と、語ったのでした(ヨハネの福音書8章1節―12節)。人のことばに傷つき、さまざまなことで苦悩し、自分の中に閉じこもって心をかたくなにして光が見えないような状態のとき、すなおになって主を見上げ、主がどのような方であるかを思い起こすなら、今日の聖句が「主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。」と語っているように光が差し、思いもしなかった神からの力が不思議に湧いて来て、いつの間にか元気が与えられ立ち上がることができるのではないでしょうか。