まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうこともなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。(詩篇22篇24節)

1.民数記6章22節―27節
2.サムエル記第一30章1節―19節
3.詩篇25篇1節― 20節
4.ヘブル人への手紙4章14節―16節

出エジプト記33章11節に「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」とある一方、モーセが主に「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と申し上げると「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから。(出エジプト記33章18節、20節)」と、ヨハネの福音書1章18節も「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と語っているように、「顔と顔を合わせる」ということは親しい良い関係を意味するのではないでしょうか。なぜなら、お互いに顔と顔を合わせることができないような時には関係がうまくいっていないことを現しているのではないでしょうか。ヨブに降りかかったわざわいを聞いた三人の友人は慰めるためにヨブを訪ねたのですが、悪性の腫物によって彼がヨブと見分けられないほどであったために、彼らは七日七夜ヨブのそばにいながら一言も話しかけなかったどころか、ヨブを非難するようなことをしたのですが、そこには人間の愛の弱さをうかがい知ることができるのではないでしょうか。一方神の愛と恵み、あわれみは罪人のためにとりなされ、ご自身を捧げられたイエス様のお姿に見ることができます。今日の聖句「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうこともなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」を心に据えて、悩みのうちに天を仰いで祈ると、いつも解決を与えてくださったことを、主が友と語るように顔と顔を合わせて語られたモーセ同様、友と呼んでくださるイエス様(ヨハネの福音書15章15節)に、心のうちを全て打ち明けて心に安らぎを、主からの平安をいただこうではありませんか。