肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは肉によって歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ人への手紙8章3節―4節)

1.使徒の働き2章22節―47節
2.ローマ人への手紙4章25節―5章5節
3.コリントへの手紙第二3章6節―18節
4.ガラテヤ人への手紙5章2節―16節

イエス様は十戒(出エジプト記20章1節ー17節)を神を愛することと、隣人愛することの二つの戒めにまとめられ(マタイの福音書22章35節―40節)、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです(マタイの福音書5章17節)」と仰せられたように罪人を救うために十字架の死に至るまで従順に従われ、ご自身を十字架につけている人々のためにとりなして祈られ、神の愛を示されたのでした。イエス様は弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネの福音書15章12節)」と仰せられたのですが、真理の御霊が内住されていても(ヨハネの福音書14章17節)ヤコブとヨハネは「あなたの栄光の座でひとりを先生の右に、ひとりを左に座らせてください。(マルコの福音書10章37節)」などと言ったり、だれが一番偉いかなどと議論したりするような生き方をしていたのですが、聖霊の力に満たされた彼らはもはや福音書にみられるような生き方ではなく神を愛し、隣人を愛する人に変えられたのでした。すべてのキリスト者には御霊が与えられ神の愛が心に注がれているにもかかわらず(ローマ人への手紙5章5節)、福音書の弟子たちのように自分に生き、御霊を悲しませたり、肉の思いに支配されて、御霊を消したりするような、すなわち律法(みことば)に服従できないようなことをしてしまうのではないでしょうか(ローマ人への手紙8章7節)。御霊に従って歩むことができるように御霊の力に満たしてくださるように主に祈ろうではありませんか。