私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント人への手紙第二3章18節)

1.エゼキエル書36章25節―27節
2.ローマ人への手紙15章14節―16節
3.コリント人への手紙第二4章11節―16節
4.ヘブル人への手紙10章14節―22節

キリスト者を迫害していた頃のパウロは聖霊を持たず神の義を知らずに律法による自分の義に生きていましたが、キリスト者となった彼は「私の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆きました。ダビデもパウロのように「ああ、私は咎ある者として、罪ある者として母は私をみごもりました。」と告白してから「神よ、私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈られました(詩篇51篇5節及び10節)が、パウロは「今は、キリスト。イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」とその答えをキリストに見たのでした。私たちもパウロやダビデのように自分の罪深さを思わされる時、恵みの御座に真心を持って近づき、主を信じたことによって今日の聖句が「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と語っている聖霊が与えられ聖なるものとされていること(ローマ人への手紙15章16節)、心に十字架の血の注ぎを受けて邪悪な良心がきよめられているだけでなく(ヘブル人への手紙10章22節)、日々新たにされていることを(コリント人への手紙第二4章16節)感謝して生きようではありませんか。