もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(コリント人への手紙第二11章30節)

1.ローマ人への手紙7章20節―8章3節
2.コリント人への手紙第一1章18節―25節
3.コリント人への手紙第一2章1節―5節
4.コリント人への手紙第二12章1節―10節

彼は「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼りにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」と、「犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者」、すなわち割礼主義者に気をつけるように語ってから「私は八日目の割礼を受け、イスラエルの民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」と、誇ろうと思えば割礼主義者以上に誇ることができてもそのような誇りは、キリストによって与えられる神の義や神の恵みを知ることによって、取るに足らないものであることを話されました(ピリピ人への手紙3章2節―7節)。ネブカネデザル王は「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」と高ぶった途端に彼は人間の中から追い出されてしまったのでした。世の人々は、自分の弱さを隠そうとしますが、パウロは「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」と語っていますが、その理由は、主から「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたからではないでしょうか。弱さを覚える時、弱さの中に座り込むのではなく、弱い時にこそ力を与え、強くしてくださる主を仰ぎ見ようではありませんか。