何をするにしても、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ人への手紙3章23節)
1.マタイの福音書20章17節―28節
2.コリント人への手紙第二5章7節―16節
3.エペソ人への手紙6章5節―8節
4.ヘブル人への手紙13章1節ー2節
サウロとも呼ばれていたパウロはキリスト者となる前は祭司長やユダヤ人と同じようにナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えてキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者を迫害するために向かっていたダマスコの途上で「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いたので「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」と、自分が迫害しているのはキリスト者でなくイエス様ご自身であることを知らされたのでした(使徒の働き9章1節―6節、使徒の働き26章9節―18節)。キリスト者となった彼は「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとは思いません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(コリント人への手紙第二5章15節―16節)」と語るとともに「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人への手紙6章12節)」と、人はとかく人を敵視してしまうようなことが多々ありますが、まことの敵は人ではなく悪魔や悪霊であること語っています。罪人のためにご自身をささげらたイエス様のことを心に据えて、迫害しているのはキリスト者ではなくパウロもユダヤ人たちも待ち望んでいたキリストご自身であったことを指摘されたパウロの「何をするにしても、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」と勧めに従って生きようではありませんか。