信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11章6節)

1.使徒の働き3章1節―16節
2.ローマ人への手紙10章10節―17節
3.コリント人への手紙第二5章1節―10節
4.ヘブル人への手紙12章2節―3節

とかく信仰と宗教心が混同されてしまいがちですが、パウロは「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。(ローマ人への手紙10章17節)」と、信仰はキリストとの関係なしに生まれることがないことを語っています。イエス様のことを耳にしたことによって十二年間長血をわずらった女性に「お着物にさわれることでもできれば、きっと直る。」という信仰が生まれましたし(マルコの福音書5章25節―34節)、イエス様のことを聞いた百人隊長は病気で死にかけていたしもべのためにユダ人をイエス様のもとに遣わしましたが「あなたを屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」という信仰が与えられたのでした(ルカの福音書7章1節―10節)。ところで、今日の聖句は「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」と語っていますが、イエス様がペテロに「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と、仰せられたように、悪魔はさまざまな試練をもってキリスト者を試みますので、一時的に信仰が萎えてしまったり、不信仰に陥ったり、挫折してしまうようなことがありますが、信仰がなくならないようにイエス様がとりなしていてくださるので、どうにもならなくなると「ああ、主よ」と呼びかけたり、「主しかいない」という思いで主に立ち返りますが、それは信仰がある証拠ではないでしょうか。ですからキリスト者は神に喜ばれている存在である事を、すべてを益としてくださる神が聖霊なる神として内住してくださっていることを忘れずに、主を信頼して生きようではありませんか。