神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神は行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3章11節)
1.伝道者の書9章11節―12節
2.イザヤ書55章6節―11節
3.ローマ人への手紙11章25節―35節
4.ペテロの手紙第一4章12節―19節
ヨハネの福音書2章23節―25節は「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったかたである。」と、語っていますが、それは、死からよみがえられたイエス様に弟子たちが「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか(使徒の働き1章6節)」と尋ねたように、ユダヤ人たちはメシアを待ち望んでいましたが、彼らが考えていたメシアのようなありかたではなく、まず罪人を救うために来られたからだったからではないでしょうか。弟子たちの問いにイエス様は「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」と答えられたのでした。ユダはイエス様と寝食をともにし、群衆にたとえで話されたその真意を聞き、多くの奇蹟を見ながらもイエス様のことを信じないで、銀貨30枚をもってイエス様を売るようなことをしましたが、それらのことはすべて預言されていたことでした。十字架の死は、罪の代償を支払うためであり、死からよみがえられたことによって罪の代価が完全に支払われたために、イエス様を信じる者には罪の赦しと永遠のいのちが与えられることになったのでした。今日の聖句「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神は行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」を心に据えて、「どうしてこんなことが」と思われるようなことも主はすでにご存じなであることを、主は良きお方であり、すべてのことを働かせて益としてくださる神であることを、結果も主の御手の中にあることを忘れずに主を信頼して生きようではありませんか。