主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(詩篇23篇1節)

1.エゼキエル書34章11節ー16節
2.マタイの福音書6章8節及び27節ー33節
3.ヨハネの福音書10章9節ー16節
4.ローマ人への手紙8章28節ー32節

ダビデはサウル王にゴリアテと戦うに際して「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はその後を追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手から私を救い出してくださいます。(サムエル記第17章34節―37節)」と、羊飼いとしての経験を話されたように、ダビデは彼自身が羊飼いであったので、羊飼いの心意気や働きを熟知していたので、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と確信をもって語ることができたのではないでしょうか。しかも、彼は「主は私の羊飼い」と神との関係が個人的なものであり、「私は、乏しいことがありません」と必要なものは主が与えてくださるという全幅の信頼をもっていることがわかります。パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(テモテへの手紙第一6章6節)」と語っています。さまざまな欲に支配されると満ち足りる心を持つことができないのではないでしょうか。パウロは三度祈っても、彼の願いがかなえられないことがありましたが、それは高慢の罪を犯さないためであったことを悟ったのでした(コリント人への手紙第二12章7節―8節)。イエス様は「父なる神は私たちに必要なものを知っておられる(マタイの福音書6章8節)」と仰せられました。ダビデのように「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と言える信仰生活を良い羊飼いである主に導いていただこうではありませんか。