何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそが神に対する私たちの確信です。(ヨハネの手紙第一5章14節)

1.列王記第一3章3節ー13節(歴代誌第二1章7節ー11節)
2.ピリピ人への手紙2章13節ー16節
3.ヤコブの手紙1章5節ー8節
4.ヤコブの手紙4章1節ー4節

イエス様に「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを先生の左にすわらせてください。」と申し上げたヨハネに、イエス様は「わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。」と答えられました(マルコの福音書10章35節―40節)。聖霊に満たされたヨハネは「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそが神に対する私たちの確信です。」と語っていますが、時として「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。」だけがひとり歩きし、自分の欲が満たされるような祈りになってしまう可能性があるのではないでしょうか。イエス様はイエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者は開かれます。(マタイの福音書7章7節―8節)」と仰せられましたが、「わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネの福音書15章7節)」とも仰せられたように、欲しいものがかなえられるためには、主と主のことばに生きる必要があることを語っています。ソロモンは神のみこころにかなった願いをしたので、神は彼が求めた聞き分ける心(列王記第一3章9節)知恵や知識(歴代誌第二1章10節)だけでなく彼が願わなかった富や名声をも与えられたのですが、その秘訣は主を愛していたことにあるのではないでしょうか(列王記第一3章3節)。主を愛しているか自分を愛しているかが願いごとに表されるのではないでしょうか。自分と自分の欲に支配された願いごとにならないために、十字架のイエス様を仰ぎ見ようではありませんか。