光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(詩篇97篇11節)
1.詩篇4篇6節ー7節
2.詩篇112篇1節ー4節
3.エペソ人への手紙5章 6節ー11節
4.ペテロの手紙第一2章3節ー10節
イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実をむすぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません。(ヨハネの福音書15章4節)」と仰せられました。ところで、ヨハネの福音書1章4節―5節に「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」とイエス様について、イエス様は人の光であること、やみが打ち勝つことができない力があることを語っています。種を蒔き、水や肥料を与えても光がないと実を結ぶことができないばかりか、枯れてしまうのではないでしょうか。パウロは獄中から「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4章4節)」と人々に勧めていますが、そのように人々に勧めることができたのは御霊の実をつけていたからではないでしょうか(ガラテヤ人への手紙5章22節)。ダビデは「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩篇4篇7節)」と語っていますが、主が与えてくださる喜びに生きられたのはパウロもダビデも常に主を仰ぎ見ていたこと、すなわちどんな状況におかれても光をみていたことによるのではないでしょうか。今日の聖句「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。」を心に据えて、喜びが失われたような時、心がキリスト意外のものに向いてしまい、御霊を悲しませたり、消したりしているのではないでしょうか。そのような時、光である主に立ち返るなら、御霊の実である喜びが息を吹き返すのではないでしょうか。