わたしにむかって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる父のみこころを行う者が入るのです。(マタイの福音書7章21節)

1.ヨハネの福音書316節-18節
2.ローマ人への手紙11章33節ー122
3.コリント人への手紙第一2章11節ー12節
4.エペソ人への手紙2章1節ー9節

今日の聖句「わたしにむかって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる父のみこころを行う者が入るのです。」をもって、キリスト者でも主のみこころを行わないなら、天の御国に入れないかのように思ってしまう方がおられるようですが、イエス様は今日の聖句の前句で、にせ預言者に気をつけるように仰せられ、今日の聖句の後、主の名によって預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇蹟を行っても、そのような人々にイエス様が「しかし、その時、わたしは彼らに宣告します。『わたしはあなたがたを全然しらない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と言われました。ヨハネの福音書1章12節―13節は「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によってうまれたのである。」と、そしてイエス様が「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネの福音書6章29節)」と仰せられたことから、キリスト者は神のわざが臨んだ者であることがわかります。しかも、神のみこころを知っておられる聖霊が与えられているのですが(コリント人への手紙第一2章12節)、この世に生きている限り、主と主の名の威力をよく知っていたダビデでも自分の考えで行動したように(サムエル記第一27章1節)、パウロが心の葛藤を覚えて悩まれたように、肉の思いで行動して罪を犯すようなことがありますが(ローマ人への手紙7章18節ー21節)、パウロはイエス様がとりなしていてくださるので、キリスト者が罪に定められることはないことを語っています(ローマ人への手紙8章23節―24節)。自分のことよりも、恵みを実現するためにご自身をささげられたイエス様のことを、行いによってではなく恵みによって救われていることを忘れずに、主が喜ばれるかどうかを思うなら、神のみこころをご存知な御霊がはっきりと心に語りかけ、みこころかどうかを教えてくださるのではないでしょうか。たとえ、肉の思いで失敗しても、御霊は主に立ち返るように、十字架の恵みと神の愛をさらに深く知るように導いてくださるのではないでしょうか。