キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられた者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ人への手紙3章13節―14節)
1.民数記23章7節ー24章10節
2.マタイの福音書5章17節―20節
3.エペソ人への手紙1章3節―14節
4.ペテロの手紙第一3章8節―9節
人は何かあるとのろわれているのではないか、と不安がりますが、神は人を創造されたときの第一声は「祝福」でした。ところで、「のろい」は、まず、悪魔に向けられ(創世記3章14節)、そして、主は、神の警告をないがしろにして妻の声に聞き従ってアダムが罪を犯したことによって、土地がのろわれてしまったことを(創世記3章17節)アダムに告げたのですが、興味深いことに主はエバとアダムをのろうことをせず、かえって皮の衣を作って着せてくださったのでした(創世記3章21節)。やがて、主はイスラエルの民に生きるべき道を示された律法をモーセによって与えられたのですが、ヤコブの手紙2章10節が「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と、ローマ人への手紙3章19節―21節が「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」と、律法が与えることのできるのは罪意識、すなわち罪を認めざるを得ないことを、罪や罪意識から解放される道はイエス・キリストにあることを、しかもイエス様を信じるすべての人に有効であることを語っています。そのうえ、今日の聖句は、イエス様を信じるすべての人は十字架でイエス様が罪の代価を支払ってくださったので、のろいから解放されていること、アブラハムへの祝福だけでなく神を「アバ。父」と呼ぶことができる聖霊が与えられていることを語っています。何があっても、どんなことがあっても、しあわせにするための神の大きなご計画があることを心に留めて、主に祝福されている者であることを忘れないようにしようではありませんか(民数記23章19節ー21節、申命記8章11節―16節)。