兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ人への手紙5章13節)

1.ローマ人への手紙122節―5
2.コリント人への手紙第一124節―27
3.ピリピ人への手紙1章29節ー2章11節
4.ペテロの手紙第一4章7節―11節

ゼベダイの子たちの母が、子どもたち、すなわちヤコブとヨハネといっしょにイエスのもとに来て(マルコの福音書10章35節)、ひれ伏して、「わたしのこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」と申し上げると、イエス様は「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と尋ねると、彼らが「できます」と答えたので、主は「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」と仰せられたのでした。そのことを聞いたほかの十人はヤコブとヨハネのことで腹を立てたのですが、イエス様は弟子たちに仕える者となるように、しもべとして生きるように仰せられるとともに「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と、イエス様ご自身を模範にするように仰せられたのでした(マタイの福音書2020節―28節)。ヨハネの手紙第一4章9節が「神はひとり子を世にお遣わし、その方によって、私たちに、いのちを得させてくださいました、ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」と語っているように、イエス様は父なる神のみこころを行うために、すなわち十字架の死にいたるまで父なる神に仕えられ、神の愛を示されたのでした。今日の聖句は「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」と勧めていますが、そこに使われている「愛」はギリシャ語のアガペ、すなわち神の愛であり、神の愛は御霊によってキリスト者に与えられていることをローマ人への手紙5章5節は語っています。聖霊に満たされた弟子たちはもはやだれが一番偉いなどと議論をするようなことは言わなくなりました。パウロもペテロも御霊によって与えられている賜物をもって互いに仕え合う事を勧めていますが、その秘訣は、パウロが体をたとえて語っているように、キリスト者はキリストのからだを構成している者でることを心に留めるとともに、与えられている神の愛をもって互いに仕え合うためには、御霊が悲しまないような生き方をする必要がありますが、そのためには肉、すなわち自分の思いや考え、感情との戦いがあるのではないでしょうか。そのようなとき、イエス様が父のみこころを行うために、ご自身を父におゆだねするためにどれほど苦しまれたかを、苦しみや死の後神の栄光が現されたことを熟考し、みことばに生きることができるように、弟子たちが体験されたように主が御霊の力を注いでくださるよう祈ろうではありませんか。