神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節―34節)
1.ローマ人への手紙3章19節ー28節
2.ヘブル人への手紙4章13節―16節
3.ヘブル人への手紙7章14節―28節
キリストを信じる信仰によって神から与えられる神の義を知った、パウロは「もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。(ピリピ人への手紙3章4節―7節)」と、人はとかくさまざまなことを自慢しますが、キリストこそが大切であること語っています。パウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができないからです。」と自分の弱さを語るとともにその原因が「私のうちに住む罪です。」と、罪であることを語るとともに「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ人への手紙8章3節)」と、罪の解決は十字架にあることを語っただけでなく「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とキリスト者は決して罪に定められないことを語っています。ですから、大祭司であるイエス様こそ私たちにとって必要なかたであることをとヘブル人への手紙7章26節は語っています。自分で自分を罪に定めるよりも恵みの座に出てとりなしていてくださる主をほめたたえようではありませんか。