その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。(マタイの福音書16章21節)

1.伝道者の書3章1節ー11節
2.マタイの福音書2757節―66
3.コリント人への手紙第一153節―11
4.エペソ人への手紙41節―10

今日の聖句「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」は、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白してから、弟子たちに話されたことばであり、イエス様は殺されて終わるのではないことを話されたのでしたが、伝道者の書3章11節が「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを初めから終わりまで見きわめることができない。」と語っているように、彼らにはその意味がわからなかったのでしょう、イエス様が死人の中からよみがえられたときに弟子たちは聖書とイエス様が言われたことを信じたのでした(ヨハネの福音書2章22節)。日本は亡くなられると火葬されて骨だけになって墓に納められますが、クリスチャンでないと、納骨が終わると、天国で眠っているとは言いますが、何かすべてが終わってしまったかのように思わされるのではないでしょうか。イエス様が葬られたことによって、弟子たちも同じように思ったのではないでしょうか。シモン・ペテロが「私は漁に行く」と言うと、「私たちもいっしょに行きましょう。」と、弟子たちは小舟に乗り込んで漁に出たのですが、よみがえられた主の方からご自身を現されたのです。ペテロをはじめ弟子たちの喜びはいかなるものかと思います。ヨブ記の中でも主は長い沈黙を守っていましたが、やがて、主はヨヨブに語りかけてくださったのでした。祈っても、祈っても何も起こらないように思われるような時、自分に信仰がないからではないか、とか祈りが足りないのではないか、などと自分をさばいたり、失望したりするのではなく、主が沈黙されていることにも意味があることを、どんな時にも主の時があることを心に据えて、信仰の完成者であるイエス様を信頼して生活しようではありませんか。