あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネの福音書16章24節)

1.使徒の働き31節―16
2.使徒の働き41節―12
3.ローマ人への手紙101−13

コロナ禍において今年のオリンピックは開催できるのかどうか危ぶまれるような状況において、森喜朗氏が胸の内を話すと共に「神に祈るしかない」とテレビで発言されたように、人は窮地に追い込まれると「神に祈る」と言いますが、その神の存在は漠然としているために、パウロが「ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像のところでした。(コリント人への手紙第一12章2節)」と語っているように、創造者なる神に祈るのではなく、受験期には菅原道真を神とする湯島天満宮に若者たちが行くように、各自が神と思っている場所や家に祀られている神棚に向かって祈るのではないでしょうか。イエス様は「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と、イエス様の名によって祈ることと、イエス様の名によって祈るなら喜びが満ち満ちたものとなることを約束されました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」と喜んで帰って来た弟子たちに、イエス様は「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と仰せられました(ルカの福音書10章17節―21節)。ペテロは生まれつき足がなえていた人が直ったのは、あなたがたが十字架につけ、神は死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によったことであり「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」とユダヤ人の指導者や長老、学者や大祭司の前で大胆に証したのでした。日々の生活においてさまざまな願いや祈りがこたえられると嬉しいものですし、時には答えられないことにも主の守りがあることを知って喜ぶこともありますが、一番の喜びは祈っている人々がイエス様を信じることを告白し救われることではないでしょうか。菅総理はじめ政財界、教育界のリーダーをはじめすべての人々の救いのために祈ろうではありませんか。