先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43章18節―19節)
1.サムエル記 第二7章12節―16節
2.ヨハネの福音書1章14節―17節
3.使徒の働き13章16節ー43節
4.ヘブル人への手紙10章1節ー18節
律法学者やパリサイ人が「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打するように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と何度も尋ねたので、イエス様は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と、また律法学者やパリサイ人たちに「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と仰せられました(ヨハネの福音書8章3節―12節)。イエス様は「だれでも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、その新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みません。『古い物は良い』と言うのです。(ルカの福音書37節―39節)」と仰せられました。新しいぶどう酒は十字架で流されたイエス様の血で罪を取り除くことができますが、古いぶどう酒は律法によって定められた規定によって捧げられた雄牛ややぎの血で罪を赦していただくことはできても、罪を除くことはできなかったのでした(ヘブル人への手紙10章4節)。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教える人々がいて論争が起こったことが使徒の働き15章1節―5節にあります。ヨハネの福音書1章16節―17節は「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上に恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。」と語っています。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネの福音書14章6節)」と、実を結ぶためにはイエス様との関係が不可欠であることを話されました(ヨハネの福音書15章4節―5節)。今日の聖句が「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」と語っているように、荒野であっても、荒地であっても主が道を、川を設けてくださることを心に据えて、日々主がともにいてくださることを感謝するとともに、主の恵みにとどまるようにしようではありませんか(使徒の働き13章39節―43節)。