わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネの福音書6章35節)
1.箴言3章1節―26節
2.イザヤ書55章1節―3節
3.ヨハネの福音書7章37節―39節
4.ヘブル人への手紙4章12節ー16節
悪魔は40日40夜断食をされたあとで空腹を覚えられたイエス様に「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と、自分と自分のことばに従うかを試みましたが、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばにる』と書いてある」と、みことばで対処されサタンの誘惑に陥らなかったのでした。人は肉体だけでなく、たましいや霊が与えられているために、食べ物によってたましいは一時的な満足感を得ることができても、今日の聖句が「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と語っているように、霊、すなわち心の満たしは食べ物によるものではなく、イエス様によって与えられるものであり、それはどんなことがあっても状況に左右されないゆるがないものであることをイエス様は約束されたのでした。ローマ人への手紙15章5節は「どうか忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように」と、同章13節は「どうか、恵みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」と、コリント人への手紙 第二1章3節―4節は「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」と、私たちが信じている神がどのような方であるかを語っています。パウロ は「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と語ってから「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」と、神とキリスト・イエスにあって明らかにされた神の愛がどのようなものであるかを知って使徒の務めを果たされたのでした。どんな状況においても主はいつもともにおられ、私たちの失敗さえも主にお委ねするなら、その失敗をも益としてくださる主に目を留め、主を信頼して生活しようではありませんか。