神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。(コリント人への手紙 第二214節―15節)

1.ローマ人への手紙1311節―14
2.エペソ人への手紙417節―24
3.コロサイ人への手紙3章2節―17節

世の人々は人の知恵や能力を誇るようなことをしますが、主は自分を誇らないように、主を知っていることが大切であることを語っています(エレミヤ書9章23節―24節)。ところで、アモス書5章21節−24節は「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」と主を軽視しているイスラエルの民に語っていますが、キリスト者にとっても礼拝が、賛美が、主に喜ばれているかどうかを考えさせられることばではないでしょうか。今日の聖句は「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」と、イエス様を信じることによって、罪が赦され、取り除かれるだけでなく、神がすべてのことを働かせて益としてくださるがゆえに(ローマ人への手紙8章28節)、キリスト者は「かぐわしいキリストのかおり」であることを語るとともに、「救われている人々」すなわちキリスト者の間にあっても、「滅びる人々」すなわちこの世の人々との人間関係においても、「至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」と、キリストを証する者とされていることをも語っているのではないでしょうか。キリストのかおりですから、古い人を脱ぎ捨ててキリストを着て生きる、すなわち自分を喜ばせるのではなく、私たちが救われるためにいのちをささげてくださった主が喜ばれるかどうかを考えて生活しようではありませんか。