あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネの福音書15章8節)

1.マタイの福音書1024節―25
2.マタイの福音書2818節―20
3.ヨハネの福音書1224節―28
4.ヨハネの福音書17章16節ー21節

今日の聖句は「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」と語っていますが、イエス様は「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネの福音書15章1節―3節)」と、「わたしの枝で実を結ばないもの」と言われましたが、それはキリスト者を意味するのではなく、イザヤ書5章1節―7節やパウロの「イスラエルの一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなるときまでであり、こうしてイスラエルはみな救われるということです。・・・彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに愛されている者なのです。」と、語っているようにイスラエルの民を意味しています。多くの実を結ぶには刈り込み、すなわちペテロの手紙 第一1章6節―7 節が「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」と語っているように試練が臨むことを意味しているのではないでしょうか。キリスト者によって神が栄光をお受けになるためには、「わたしの弟子」すなわち、キリストの弟子になる必要性をも語っています。イエス様には多くの弟子たちがいましたが、イエス様のことばの意味を尋ねることなく、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言って主から離れていった弟子たちがいましたし、寝食をともにしながらもイエス様を信じないで、イエス様を裏切ったユダもいました(ヨハネの福音書6章51節―66節)。イエス様は聖霊がすべてのことを教えるだけでなくイエス様が話したすべてのことを思い起こさせることを言われましたが、聖霊が下ったのはイエス様が昇天された後の五殉節(ペンテコステ)の日でしたので、福音書のペテロをはじめ弟子たちは十字架の死と復活についてイエス様が話されても理解できず、イエス様が死からよみがえられたのを見てイエス様のことばと聖書を信じ(ヨハネの福音書2章22節)、聖霊に満たされキリストの弟子となったのでした。キリスト者となったパウロは恵みを深く知る者となり、「ある人が、『私はパウロにつく』と言えば、別の人は、`『私はアポロに』tと言う。そういうことでは、あなたがたはただの人たちではありませんか(コリント人への手紙3章4節)」と、「私」に生きていたコリントの教会の聖徒たちに「私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習ってください。(コリント人への手紙 第一11章1節)」と、キリストの弟子となることを勧めています。ヘブル人への手紙12章4節は「あなたがたは、罪人たちの反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」と勧めています。自分のために生きるのではなく、信仰の創始者であり完成者であるイエス様がどのように生きられたかを思い起こし、御霊の力に満たされ父の栄光をあらわされたイエス様のように、聖霊なる神が内住しておられることを自覚し、神の栄光を現すために(コリント人への手紙 第一6章19節―20節)、試練にも意味があることを認めて主が喜ばれるように生きようではありませんか。