主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。(イザヤ書42章21節)

1.マタイの福音書2818節―20
2.マルコの福音書1615節―20
3.ローマ人への手紙1章14節ー17節
4.コロサイ人への手紙1章3節ー6節

イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなた方は決して天の御国に、入れません。(マタイの福音書5章20節)」と仰せらました。パリサイ人や律法学者は律法による自分の義に生き、自分を義人と自任し、他の人々を見下すような生き方をしていたからです(ルカの福音書18章9節)。パウロもキリスト者になる前はパリサイ人として生き、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知らずに、律法による自分の義に生き、イエスの名に強硬に敵対すべきとして考えてキリスト者を迫害していたのですが、キリストを信じる信仰によって神から与えられる神の義を知ったパウロは「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙1章16節-17節)」と、福音を伝える者となったのでした。パウロは神のことばを曲げず、真理を明らかにしても「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光をかがやかせないようにしているのです。(コリント人への手紙 第二4章3節―4節)」と神の望みをさまたげる働きがあることを語っています。パウロはエペソの聖徒たちに「私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができように私のためにも祈ってください。(エペソ人への手紙6章19節)」と要請しています。偶像崇拝をしている人々がこの世の神から解放されるように、牧師や働き人が福音の奥義を大胆に語ることができるように祈るなら、直接みおしえを広げるような働きに携わっていなくても、主が願っているような宣教の働きの一端を担っていることになるのではないでしょうか。