すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人への手紙6章18節)

1.コロサイ人への手紙42節―4
2.テサロニケへの手紙 第一 517節―24
3.ユダの手紙17節―21節

イエス様は「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。(直訳:私の敵に対して、私を正当に扱ってください。)』と言っていた。彼は、しばらく取り合わなかいでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがたない』と言った。」というたとえ話を、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために話されてから「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と(ルカの福音書18章1節―8節)、神は私たちの祈りをお聞きくださる方であり、正しいさばきをされる方であるとともに、主の時があることを心に据えて、いつでも祈るように勧めておられるだけでなく、主の再臨をも語っています。今日の聖句「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」を心に据えて、すぐに祈りの応えがなくても祈りをやめてしまうのではなく、主は私たちの祈りを聞いておられること、主の時があることを思い起こし、どうやって祈っていのかわからず、うめくような時、うめきも御霊の働きがそこにあることを感謝するともに、「すべての聖徒」と語っているように世界中のキリスト者が聖霊に満たされ、大胆に福音をお分ちすることができるように主を待ち望んで祈ろうではありませんか。