私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」(伝道者の書3章17節)

1.伝道者の書31節−11
2.ヨハネの福音書524節―30
3.使徒の働き1034節―43
4.コリント人への手紙 第一 4章4節―5節

すべての人はこの世に誕生してからこの世を去るまでの間、罪を積み上げながら生きているのではないでしょうか。しかし、ローマ人への手紙323節―26節は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それはご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今のときにご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」と、どんな罪人でもイエス様を信じることによって神の義が与えられ、神が義と認めてくださることを語っています。ソロモンは「私は心の中で言った。『神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。』」と語っていますが、パウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何ごとについても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙 第一 44節―5節)」と、キリスト者の全生涯の罪やあやまちは十字架で支払われているので、罪やあやまちが指摘されるのではなく、称賛が届くと大胆な発言をしています。なぜなら、さばきを行う権威が与えられているイエス様は(ヨハネの福音書527節、コリント人への手紙 第二 510節)、キリスト者が罪に定められないようにとりなしていてくださるからです(ローマ人への手紙834節)。自分で自分を罪に定めるようなことをせずに、十字架の恵みを忘れずに生きようではありませんか。