主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。(ナホム書1章7節)
1.詩篇139篇1節―16節
2.ヨハネの福音書10章11節―15節
3.ローマ人への手紙8章15節ー16節
4.コリント人への手紙 第二 6章1節―10節
取税人のかしらで金持ちでしたが、背が低かったのでイエス様を見るために、いちじく桑の木に登ったザアカイに、イエス様が「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしているから。」と仰せられると、ザアカイは急いで降りて来て大喜びでイエス様をお迎えしたのですが、それを見た人々が「あの方は罪人のところに行って客となられた。」とつぶやいたのですが、ザアカイが主に「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と申し上げると、主は「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と仰せられました。人々はザアカイのことを「罪人」と言いましたが、主は「アブラハムの子」と仰せられたのでした(ルカの福音書19章1節―10節)。主はエッサイの息子に王として油を注ぐようにサムエルを遣わされました。サムエルはエリアブを見て「確かに、主の前で油そそがれる者だ」と思いましたが、主は「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主が心を見る。」と仰せられ、エッサイが紹介した七人の息子たちではなく、父が考えていなかった一番すえの息子ダビデを選ばれたのでした。ダビデは、自分のいのちを愛し、サウルを恐れて自分の考えで行動するなど、さまざまな罪を犯したことが旧約聖書に記述されていますが、使徒の働き13章22節は「わたしはエッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する。」と、彼の犯した罪についての記述はいっさいなく、神のみこころにかなった者という評価が下されています。その鍵は、良心のとがめを受けると罪を主に告白して悔い改め、困難な状況に追い込まれると、主に助けを求めたことにあったのではないでしょうか。コロナウイルスの報道は人々に恐れをもたらすだけですが、このような時にこそ、今日の聖句が「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」と語っているように、恐怖に陥れるような奴隷の霊に支配されないために、主がどのような方であるかを、私たちは主に知られていることを心に留め、永遠のいのちを与えてくださる主を人々が求めるように祈ろうではありませんか。