だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようには言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。(ヨハネの手紙 第一5章16節―17節)
1.マタイの福音書12章30節―32節
2.使徒の働き7章46節―8章1節
3.ペテロの手紙 第一2章 4節―9節
中国の武漢で発症し、世界中に蔓延している新型コロナウイルスの感染拡大を避けるための方策や処方箋に関する報道が毎日されていますが、聖書の観点から「疫病」について見てみると、人が創造者なる神に背を向けて罪を犯した時に疫病が民や国に臨むことを、疫病が起こることを神は許されていることがわかります。イスラエルの民はモーセを用いて数々の奇蹟を行い、神の偉大さを見ていたにもかかわらず、モーセが山から下りてくるのに手間取っていたので、民はアロンに「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちはわからないから。」と言ったので、アロンは民の金のイヤリングを集めて金の鋳物の子牛を造り、エジプトで大いなることをなさった自分たちの救い主である神を忘れ、偶像崇拝をして罪を犯したのでした(出エジプト記32章1節―14節)。詩篇106篇19節ー30節に「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前に破れに立たなかったら、どうなっていたか」と、神のみことばを信じないで、主の御声を聞かずにバアル・ペオル、すなわち偶像崇拝をしたために疫病(新改訳聖書:神罰)が下ったとき、「そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ(民数記25章1節―8節)。」とあります。すべてのキリスト者は「王である祭司」とされていることをペテロは語っています(ペテロの手紙 第一 2章9節)。祭司の務めは「とりなして祈る」ことにあるのではないでしょうか。イエス様は、世の終わりの前兆として「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカの福音書21章10節―11節)」と仰せられました。今日の聖句は「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようには言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」と、とりなして祈ることを勧めています。ところで、「赦されない罪」についてイエス様は「聖霊に逆らうことを言う罪」と、ステパノが「心と耳に割礼を受けていない人たち。(使徒の働き7章51節)」と語っていることから、聖霊が内住してくださっているキリスト者はそのような罪からも解放されていることを心に据えて、この終わりの時、主がこの疫病を止めてくださるように、偶像崇拝の罪を犯している人々がまことに神に立ち返るように、心理学による聖書解釈をしている方々のためにとりなして祈ろうではありませんか。神のご計画のもと、ステパノのとりなしの祈りによってキリスト者を迫害していたパウロはキリスト者となりました。