割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ人への手紙6章15節―16節)

1.ヨハネの福音書31節―8
2.コリント人への手紙 第二 5 17節―18
3.エペソ人への手紙21節―10

神は多くの国民の父とすること、そのために名前をアブラムからアブラハムに変えられ、カナンの全土をアブラハムと子孫に永遠の所有として与え、彼らの神となる契約のしるしとして、イスラエルのすべての男子は割礼を受けるように、男の子は生まれて八日目に割礼を受けるように仰せられたのですが(創世記17章1節―14節)、イエス様が「もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも人に割礼を受けるなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹をたてるのですか。(ヨハネの福音書7章23節)」と仰せられたように、モーセを通して割礼が儀式として制定されたのでした。そのために「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。(使徒の働き15章1節)」などと教える人々がいたのですが、律法についてはパリサイ人で律法による義に生きていたパウロが、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知ったことによって「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉は、人からではなく、神から来るものです。(ローマ人への手紙2章28節―29節)」と、救いは行いによるものではなく、ただ恵みによるものであることを、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と、キリスト者は新しく創造された者であることを語ったのでした(エペソ人への手紙2章5節及び10節)。ですから、パウロが「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」と、ただ「イスラエル」ではなく、「神のイスラエル」と語っているのは、イエス様によって新しく創造されたキリスト者は神の民とされていることを認識してほしいことを語るとともに、「平安とあわれみがありますように。」という祈りに、主の平安とあわれみが必要であることを示しているのではないでしょうか。生まれながらの自分に生きるのではなく、すべてのキリスト者は新しく造られた者であることを心に留めるとともに、主の平安とあわれみのがすべてのキリスト者の日々の歩みの中に与えられるように祈ろうではありませんか。