恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。(箴言16章6節)

1.ヨハネの福音書19節―17
2.エペソ人への手紙21節―9
3.ヘブル人への手紙101節―18

ダビデ はバテシバとの姦淫の罪を隠そうとしましたが、主は預言者ナタンを遣わし、彼の犯した罪を暴かれたとき、「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごりました。(詩篇51篇5節)」と、咎、すなわち罰せられるような罪を犯したから罪人になったのではなく、罪人として生まれているので間違いを犯すことを語っています。ですから、パウロは「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と悩んだのですが、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。( ローマ人への手紙7章19節―8章2節)」と、答えがキリストにあることを語っています。なぜなら、今日の聖句は「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。」と語っていますが、恵みとまことに満ちてられる方はイエス様であり(ヨハネの福音書1章14節)、私たちのすべての咎を主は負ってくださっているのです(イザヤ書53章6節)。そのことを思う時、主が喜ばれるように生きたいという願いが起こされるのではないでしょうか。悪から離れる秘訣は、主を恐れること、すなわち、主の犠牲を思うとともに、そこに示された計り知れない神の愛に敬服することによるのではないでしょうか。