イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイの福音書4章4節)
1.申命記8章1節―3節
2.ヨハネの福音書6章35節―68節
3.コリント人への手紙 第一 1章18節―25節
4.ピリピ人への手紙2章14節ー 16節
創世記1章1節―3節が「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光あれ。』すると光があった。」と語ってから、神が仰せられたように創造のわざが起きていくことを、いのちが生まれていくことを創世記1章は語っています。一方世全体を支配する悪魔とも呼ばれるサタンは「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章17節)」と仰せられた神のことばを「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と完全に否定し、偽りをもってエバを誘惑したのでした(創世記2章4節―5節)。アダムは神から直接警告を受けていましたが、妻であるエバの声に聞き従って(創世記3章17節)渡されるまま食べてしまったので、神が警告されたように人類に死が臨むことになったのでした。神のことばはいのちをもたらしますが、この世を支配している悪魔とその声に従った人のことばは死をもたらしたのです。ところで、聖書は、「死」について霊的な死、肉体の死、永遠の死(地獄で昼も夜も悪魔やにせ預言者たちと永遠に苦しみながら生き続けること。黙示録23章7節―10節)と、三つの死を語っています。この世の知恵や人間の知恵はそのような死から救われる道を開くことはできません。キリスト者であっても肉体の死を迎えますが、そのとき、「死は勝利に飲まれた」としるされているみことばが実現し、永遠に生きることができるからだに変えられ、永遠に御国で生き続けることができるのですが、その道を示すことができるのは、みことば以外にありません。空腹を覚えられたイエス様を「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と悪魔は試みましたが、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」とみことばで対抗しました。イエス様はこの世で生きるためにはパンが必要ですが、神のことばの必要性を話されました。語られたことばが、この世や人によるものか、神からのものなのかを見分ける必要があるのではないでしょうか。パウロは、キリスト者であっても、自分の欲(口語訳:自分の腹)に仕えている人々はなめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだますことがあることを語っています(ローマ人への手紙16章17節―18節)。世の人々と同じように欲に生きないように、この世のものは必要ですが、この世のことばかり考えて神を忘れないように、世の光として輝くようにいのちのみことばをしっかり握って生きようではありませんか(ピリピ人への手紙2章16節)。