神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙 第二5章21節)

1.イザヤ書4522節―25
2.ローマ人への手紙319節―26
3.ピリピ人への手紙32節―9

サウロとも呼ばれたパウロはキリスト者になる前は自分の義に生き、自分の考えでナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えてキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者となったパウロはキリストを信じる信仰によってでなければ得ることのできない神の義を知る者となり、「兄弟たち。私の心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ人への手紙101節―4節)」と、人々が救われることと神の義を知って欲しいという願いを持つ人と変えられたのでした。伝道者の書716節は「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか(口語訳)。あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(新改訳)」と、自分の義、自分の考えに生きることの危険性を語っています。箴言1618節は「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」と語っています。世の人々は神の義を知らずに自分を誇るような生き方をしていますが、神の御前に自分を誇ることができる人はいないことを聖書は語っています。今日の聖句「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」を心に据えて、、自分の義から、高ぶりから守られるために、私たちが「義」と認められるのは、私たちの行いや能力ではなく、罪人を救うために苦まれただけでなく、いのちをささげてくださったイエス様によるものであることを心に留めて、信仰の創始者であり完成者であるイエス様に感謝して生きようではありませんか。