さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。(詩篇66篇5節-6節)
1.出エジプト記14章8節―31節
2.ヨシュア記3章9節ー4章24節
3.イザヤ書43章1節―7節
パウロは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(コリント人への手紙 第二 4章8節―9節)」と語っているように、さまざまな苦しみを受けましたが(具体的にはコリント人への手紙 第二 6章1節―10節に書かれています)、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙 第一 10章13節)」と、試練に屈するのではなく、主がどのような方であるかを語っています。今日の聖句「さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。」は、前方には紅海、後方からはエジプト軍と、まさに四面楚歌の状態において、主は紅海の海水を二つに分けられ、かわいた地を民は対岸に渡ったことを、雪解け水で激流となっているヨルダン川を目の前にしたとき、契約の箱をかついでいる祭司たちの足がヨルダン川の水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川はせき止められ、民はエリコに面するところを無事に渡ることができたことを語るとともに、「さあ、私たちは、神にあって喜ぼう」と、信仰者が取るべき態度を勧めています。主はヨシュアにヨルダン川の川底から十二部族からひとりずつ選んでヨルダン川の真ん中で祭司たちの足が堅く立った所から十二の石を取って宿営地にそれを据えるように仰せられたので、宿営地であるギルガルにその十二の石で記念碑を建てたのですが、それは子孫に神のわざを知らせるためでもあったのですが、やがてこのギルガルは、良きにつけ悪しきにつけ、霊的な関わりを持つ場所になったのでした。詩篇103篇2節が「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と勧めていますが、今日の聖句にしても主がなされたことを思い起こして信仰を奮い立たせる方向に心を向けて、主をほめたたえる、すなわち主を賛美し、神にあって喜ぶようにしないと、神のわざにのみ目をとめ、神ご自身を見ないで「昔は良かった」というようなつぶやきになってしまったり、キリストご自身を紹介するよりも体験談で終わってしまうようなことがあるのではないでしょうか。