肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ人への手紙8章3節)

1.マタイの福音書517節―20
2.ローマ人への手紙319節―30
3.ヘブル人への手紙101節―23
4.ヤコブの手紙2章8節―11節

パウロは「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ人への手紙3章5節―6節)」と豪語していましたが、ヤコブの手紙2章10節は「もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と非常に厳しいことを語っています。キリスト者となって光の中を歩む者となったパウロは「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないのです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです(ローマ人への手紙3章20節)」と、律法の働きを知ったパウロは「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には自分のしていることがわかりません。私は自分のしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」と、かつて、律法による自分の義を誇っていましたが、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と、罪意識に悩まされ救いを求めた結果、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたがたを解放したからです。(ローマ人への手紙7章14節―17節及び34節―8章2節)」と、答えはキリストにあることを見出したのです。今日の聖句は「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」と、律法とは別に恵みによって救われる道を開くために、人が受ける神の怒りからも(ローマ人への手紙5章9節)救うために御子イエス様は神でありながら人として来られる必要があったのでした。私たちが受けるべき苦しみや死、神の怒りから救うために御子イエス様を人としてこの世にお遣わしくださった憐れみ深い神と私たちの身代わりとなって十字架で神の愛を示されたイエス様をほめたたえて生きようではありませんか。