主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。(箴言15章3節)

1.創世記311節―50
2.サムエル記 第一 161節―12
3.ルカの福音書16章19節―31節

イザヤ書44章9節―11節が「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。」と、詩篇115篇3節―8節が「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があってもみえない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、それに信頼する者もみな、これと同じである。」と、偶像崇拝者は偶像同様の状態でいるために、目に見えない神を知らずに、目に見えるものによって判断するような生き方をしてしまうために、人の目、人の評価を気にして生きているのではないでしょうか。しかし、私たちの神は天におられ、今日の聖句が「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」と語っているように天から地球全体をご覧になっておられ、人の行いだけでなく、詩篇139篇1節―4節が「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそ私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ。あなたはそれを知っておられます。」と語っているように行いや祈りの動機さえご存知なのです(ヤコブの手紙4章3節)。ですからソロモンはこの世のさまざまな分野を探索した結果、この世が与えられるのは、空しさであり、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は善であれ悪であれ、すべて隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道者の書12章13節―14節)」と勧めているように、「神を恐れる」、すなわち神がどんな偉大な方であるかを、私たちが罪に定められないようにとりなしていてくださる恵みとまことに満ちておられるイエス様が聖霊なる神として心に内住しておられることを思い起こし、いのちのみことばを握って生きようではありませんか(ピリピ人への手紙2章16節)。