主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(詩篇86篇11節)

1.エレミヤ書3237節―41
2.エゼキエル書1119節―20
3.ヤコブの手紙4章1節―10節

単に「神」と言うと、人の手によって祭り上げられたこの世の神々と天地万物を創造された全能なる神が一緒くたにされてしまい、どんな宗教でもちょうど富士登山のようなもので、富士吉田からの登山道でも、富士市からも登山道でも、結局同じ頂上に着くようなものでどんな神でも信心があれば良いと考えがちですが、イエス様は「わたしが(唯一の)道であり、(唯一)真理であり、(唯一の)いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)*日本語訳ははっきりしていませんが英語訳は定冠詞をつけました。」と、天国への道は唯一しかなく、登山道のようなわけにはいかないことを話されました。ですから、イエス様の仰せられたことから今日の聖句「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。」は、キリストに生きることを語っているのではないでしょうか。また、今日の聖句に「私の心を一つにしてください。」と主に申し上げていますが、興味深いことにエゼキル書11章19節の「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える」から、一つの心を与えるのは神であり、それは新しい霊、すなわち聖霊であることがわかります。パウロが「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章22節―24節)」と心の葛藤を覚えたように、キリスト者になってもこの世に生きている限り、神を愛し、みことばで生きたいという思いがある一方、肉の思いや欲によってみことばよりも自分の思いや考えに心が向いてしまい、心が二つに分かれてしまって苦しむようなことがあるのではないでしょうか。その原因は聖霊を悲しませるような、聖霊を消してしまうような状況に陥っているからではないでしょうか。そのような時、イエス様が、御霊がとりなして祈っていてくださることを思い起こし、日々「主よ。あなたの道を私に教えてください。」と、主の御名によって祈り主に導いていただこうではありませんか。