まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。(申命記4章7節)

1.申命記423節―39
2.詩篇3414節―18
3.詩篇14514節―19

ローマ人への手紙1章22節―23節が「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と変えてしまいました。」と、コリント人への手紙 第一12章2節が「ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像のところでした。」と語っているように、この世には数えきれないほどの神々が存在しますが、それらの神々は、人の考えや欲によって祭り上げられ、人の手によって造られた偶像を神として拝んでいますが、それは一時的な安心感を与えることができても気休めにすぎないのではないでしょうか。ヨハネは将来について告げられた御使の足もとにひれ伏して拝もうとしましたが、御使は「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを固く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。(黙示録22章9節)」と言われました。人も鳥も獣も御使であっても、悪魔さえも最初は神を賛美する御使でしたし、悪霊ももとは御使でしたから、すべては神が創造された被造物なのです。イザヤ書46章5節―7節は「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。それに叫んでも答えず、悩みからも救ってくれない。」と、偶像には人を救う力がないことを語っています。神は差別をされる方ではありませんが、モーセは「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。(出エジプト記33章16節)」とイスラエルの民について語っています。ですから、今日の聖句は「まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。」と語っているのではないでしょうか。主は私たちの心に聖霊なる神として内住しておられることを心に留めて祈るとともに、感情は人を欺きますから自分について自分でどう思うと、イスラエルの民と同じ立場が与えられていることを感謝して生きようではありませんか。