「どうして、昔のほうが今よりも良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。(伝道者の書7章10節)
1.民数記11章4節―34節
2.エズラ記3章8節―13節
3.イザヤ書43章18節―19節
バビロンの捕囚から帰還したイスラエルの民は「建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の鳴き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(エズラ記3章10節―13節)」と、同じものを見ても喜ぶ人と過去の栄光に固執して喜ぶことができなかった人あることを語っています。一方、神はモーセを立てて、エジプトで苦しんでいるイスラエルの民を救い、乳と蜜の流れる広い良い地に導いたのですが(出エジプト記3章7節−10節)、数々の奇蹟を体験神がどんな偉大な方であるかを見ていたにもかかわらず、民数記11章4節―6節が「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい、欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』」と、エジプトで苦しんでいたはずなのに、エジプトを懐かしむようなことを言ったのでした。それはまさしく、今日の聖句が「「どうして、昔のほうが今よりも良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。」と語っているように、過去を振り返っても何の意味もないどころか、良い影響を与えず、今を生きる力を、生きている意味を見失うような状態にしてしまうのではないでhそうか。イエス様は「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と仰せられました(ルカの福音書9章62節)。主によって今を生かされていることを心に留め、いのちがけで私たちを愛してくださっている主を悲しませないように生きようではありませんか。