どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。(テサロニケへの手紙 第二2章16節)
1.コリント人への手紙 第二1章3節―5節
2.エペソ人への手紙3章14節―16節
3.ピリピ人への手紙4章12節―13節
パウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだのなかには異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。そういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と、自分のうちにいつも善を行えないのは罪があるためであることを認め心の葛藤を覚え、自分のみじめさに悩みましたが、その解決がキリストにあることを語りましたが、今日の聖句は「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」と、私たちがあらゆる良いわざとことばに進むためには、私たちの心が慰められ、強められる必要があることを語っています。パウロのように自分を見て失望するようなとき、そのために十字架があることを、ペテロのために祈られたように主が信仰がなくならないようにとりなして祈っていてくださることを思い起こし、神の律法を喜んでいる内なる人を主が強めてくださるように祈ろうではありませんか。