私は、自分の道を顧みて(かえりみて)、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。(詩篇119編59節)

1.ルツ記11節―6
2.詩篇1191節―5
3.ルカの福音書1511節―24

人はとかく自分の道は自分で開くものであると考えがちで、将来を見据えてさまざまな決断をしながら生きていますが、決断をするときにはその決断がどのような結果をもたらすかということを完全に把握しているのではなく、想定してのものであり、実際はなんの保証もないのではないでしょうか。神から「あなたに何を与えよう。願え。」と尋ねられたソロモンは神を愛していた頃でしたので「善悪を判断して」あなたの民をあさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と答えると、主は「見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心を与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者は起こらないお。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。」と、ソロモンの願い以上のものを与えられる約束をされたのでした(列王記 第一 3章3節―12節)。知恵に満たされたソロモンはやがて「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけようと考えた。(伝道者の書2章3節)」と、天の下、すなわち創造者なる神を考慮しないこの世を、愚かさを身につける、すなわち創造者なる神を認めない世の人々と同じ立場でこの世を探索したのですが、この世が与えることができるのは空しさしかないことを発見し(伝道者の書1章2節)、ソロモンは「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ、これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道者の書12章13節―14節)」という結論を出されたのでした。士師記の時代の人々は霊的に非常に堕落していたのですが、その原因を「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(士師記21章25節)」と、王の王である主を認めずに、自分たちの考えで生きていたためである、と結論づけました。パウロは世と調子を合わせないように警告しています。今日の聖句が「私は、自分の道を顧みて(かえりみて)、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。」と語っているように、時には足をとめて、神との関係がどうなっているかを吟味し、世の光として輝くために、いのちのみことばをしっかり握って生きようではありませんか