悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(箴言14章32節)
1.詩篇116篇5節—15節
2.コリント人への手紙 第一10章1節—13節
3.コリント人への手紙 第一15章3節—22節
詩篇49篇7節—9節は「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。—たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。−人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。」と、絶望の状態を語っていますが、エゼキエル書18章20節—23節が「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることがなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。—神である主の御告げー彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」と、今日の聖句が「悪者は自分の悪によって打ち倒される」と、語っているように打ち倒すのは神ではないことを、神は悪者が悔い改めて生きることを願っていることがわかります。どんな悪者でも救われるために、神は御子イエス様をお遣わしくださり、イエス様を信じる者の全生涯の罪と罰を十字架において処理してくださったのです。コリント人への手紙 第一10章13節は「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほど試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」と、語っています。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)」と、脱出の道はイエス様にありますし、今日の聖句は「正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。」と、正しい者、すなわちイエス様を信じて罪赦された者には自分の死の中にものがれ場があることを語っていますが、それは、十字架につけられた犯罪人のひとりがイエス様に「イエスさま、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と申し上げると、イエスさまは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と仰せられたように、パラダイスが用意されているからではないでしょうか。詩篇116篇15節は「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」とあります。なんという励ましのことばでしょうか。主をほめたたえようではありませんか。