私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙 第二4章18節)

1.テモテへの手紙 第二 21節―8
2.ヘブル人への手紙122節―3
3.ペテロの手紙 第一1章5節―9節

ヨハネの福音書1章18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と目に見えない神がどのような方であるか、ということだけでなく、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っており、また、すでに父を見たのです。」と仰せられると「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と言ったピリポに「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」と仰せられたように、イエス様を見ることは、目で見ることができない神を見ていることになることを語ったのでした。イエス様は死からよみがえられ、昇天され父の右に座しておられるので、私たちはイエス様を見ることはできませんが、みことばの中にイエス様を、まことの神を見ることができることはなんと幸いなことでしょう。ヨハネが「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。(ヨハネの手紙 第一2章15節―16節)」と、パウロも「世と調子を合わせてはいけません。」と勧告しているように、神さえも偶像に仕立ててしまうような見えるものの世界に生きていますが、目に見えるものがすべてではないことを心に留め、高慢にならず、欲に支配されないために聖霊なる神としてイエス様が内住してくださっていることを、永遠のいのちが与えられていることを(ヨハネの手紙 第一5章12節)、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されていることを(エペソ人への手紙1章3節)、永遠の栄光が与えられていること(ペテロの手紙  第一5章10節)を感謝して生きようではありませんか。