人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(詩篇49篇20節)

1.詩篇495節―19
2.詩篇731節―22
3.伝道者の書311節―21
4.ピリピ人への手紙6章6節ー8節

「地獄の沙汰も金次第」という思想が日本人の背景にあるために、地方によっての違いがあると思いますが、棺の中に本物のお金を入れたり、紙に金額を書いて入れる習慣があるようですが、今日の聖句の前句は「どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。ーたましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならないー人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。」墓をみないであろうか。(詩篇495節―9節)」と、お金では贖うことができないことを語るとともに、「彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者がかれらを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(詩篇4914節―15節)」と、死から贖われる解決は神にあることを語っています。ソロモンは「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。(伝道者2章3節)」と、神から与えられた知恵をもって「愚かさ」すなわち、神を考慮しない世の人と同じ視点からこの世のさまざまな分野を探索した結果「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」と裁く方はえんま大王ではなく、神がさばかれるのであって、しかもイエス様が人にさばきを行う権は人の子としてこの世に遣わされたイエス様ご自身であることを語られました(ヨハネの福音書527節)。今日の聖句「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」を心に留め、世の価値観や生き方をうらやんだりせず、全生涯の罪が赦されているだけでなく神の子とされていることを感謝するとともに、人々の思いを暗くしているこの世の神々から(コリント人への手紙 第二 4節)、偶像崇拝によってもたらされているさまざまな風習や伝統から人々が解放され、主を信じる信仰が与えられるように祈ろうではありませんか。